第85回 鉄砲の伝来②
時の島主種子島時堯は、これに金2千両(現在のお金に直すと約2千万円)を投じて買い求めました。そして、種子島在住の鍛冶職人 八板金兵衛清定にこの複製を作るよう、命じました。もともと種子島は良質の砂鉄が採れるところだったため、鍛冶の技術が発達していた土地でした。そのことも鉄砲の複製の完成に寄与したようです。
清定は,何とこの複製を2年で完成させました。この時、清定が一番苦労したのはどの部分だったかご存知ですか。パイプ状になった銃身の底の部分です。その部分には火薬が込められ、爆発する時に一番負荷がかかるところです。
その部分をいい加減に作ると、引き金を引いたとき銃身ごと吹き飛んでしまい、発射した人が大ケガをしてしまいます。その部分はそれほど大切なところなのです。その部分には何と、ネジの技術が使われていたのです。
清定はここで行き詰まったのです。その当時の日本にはネジの技術はもとより、ネジという概念すらなかったのです。ここで悩んだ清定は、自分の娘である若狭(わかさ)をポルトガル人の職人と結婚させることで、その技術を教わった、などの伝説も残っています。
何はともあれ、鉄砲の複製は2年で完成しました。そしてその後、鉄砲は瞬く間に堺や国友などの地で何百丁と作られ、長篠の合戦(1575年)などで活躍します。鉄砲の伝来からたった30年でここまで鉄砲が作られ、使われた例は世界中に日本しかないそうで、日本人の技術の優秀さが感じられます。