第380回 「見る」と「観る」

私たちは,「みる」という言葉を一日に何回か使っていることでしょう。その「みる」には,どのような漢字を当てることができるでしょうか。「目の動きによって,物の存在や動きを捕らえる」という感じなら「見る」,視察する感じなら「視る」,詳しく観察するなら「観る」,診察する場合なら「診る」という字が使われます。同じ「みる」でも,当てられる漢字によって,場面やその見方,みる深さなどが異なります。また,もしこの「みる」を使い分けられる人がいたとしたら,その人は多種多様なものの見方を備えている「教養ある人」と言えるでしょう。

さて,ここで,自分を含めての反省ですが,今の世の中の風潮としては,人々の「語彙力や文章を作る力が落ちてきている」と言えないでしょうか。それはSNSや顔文字の広がりなどの影響が大きいのかもしれません。例えば「やばい」という言葉がその一例でしょう。この語は形容動詞である「やば(=不都合なさま)」が形容詞化した言葉だそうで,もとは盗人などが「身辺が危ない」という意味で使った隠語だそうです。そこから「自分に不利な状況が身近に迫ったり,予測される」場合に使われるようになりました。一例を挙げれば,「すぐ逃げないとやばいぞ」などという感じです。

ところが昨今ではどうでしょうか。

うまく物事が進まないときに使う場合の「やばい」は,本来の使われ方でしょうが,今食べているお菓子が美味しい時にも「このお菓子,やばい!」などと使われます。

つまり,昨今使われている「やばい」は,「自分が思っていた基準や,こうありたいと思う姿とのギャップを感じる場合に使う言葉」という感じでしょうか。日常,そのような場面はいくらでもあるので,何でも「やばい」で済ますことができてしまいます。

さて,ではその言葉を受け取る人の立場に立って考えてみるとどうでしょうか。話し相手の人としては,「このお菓子やばい!」と手短に言う人と,「このお菓子は見た目もとても可愛いくて奇麗だし,チョコレートの風味が効いていてとても美味しいね」と言う人とでは,そのどちらの人に魅力や教養を感じるでしょうか。

明治大学文学部教授の齋藤孝氏は,『語彙力こそが教養である』というタイトルの本を出されています。日頃から意識して,豊かな語彙を駆使し,正しい日本語を使う人と,何でも「やばい」や「マジっすか?」で済ませている人とでは,後々の人生に何か大きな違いが生まれてくるような気がします。

私たちは,いつまでも正しく美しい日本語を守っていきたいものです。