第366回 秀吉の中国大返し

1582年6月2日の早朝,明智光秀は主君の織田信長を本能寺にて討ちました。信長はその日,秀吉が攻める備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)に向けて,出発する予定でした。一説によれば,秀吉がこの悲報を知ったのは6月3日の夜で,秀吉は悲嘆に暮れつつも主君の仇を討つことを決意し,毛利方と講和を結び,6月5日の午後,2万人の大軍を率いて京都に進発したとのことです。そこから秀吉は備中高松から,京都の山崎(京都府乙訓郡)まで約220kmの行程を,8日間で踏破し,6月13日,山崎の戦いで明智軍に大勝して天下取りの道を走り始めました。

これら一連の行動を知り,「ああ,そうなんだ。すごそうだね」と感じる人もおられるかも知れません。一方で,「本当にそんなことができたのか。奇跡的なことだ」と,半分「信じらない」と思う方もおられることでしょう。このような行動を決断し,実行するには,次のような前提が必至です。まずは「情報の真偽を確かめる」という前提です。一説によれば,6月3日の夜に秀吉軍に怪しい者が紛れ込み,その者を捕らえたところ,光秀から毛利方への密使で,本能寺で信長らを殺したことを伝える手紙を携えていたとのことです。だまし合いが当たり前の戦国の世の中で,秀吉はこの情報一つで毛利氏との講和を決め,即座に2万もの大軍を動かす決断を下すでしょうか。もし,これが策略による誤報であり,信長が何事もなく生きていたとすれば,逆に秀吉の立場はどうなっていたことでしょう。多分秀吉は,各地からの情報が頻繁に届くようなシステムを作り上げていて,複数の情報が合致して初めて動いたことでしょう。

では次に,信長が倒れたことが紛れもない事実だとわかり,京都まで戻ると決断したところあたりの状況について検証してみましょう。6月5日の午後から13日の朝までは,実質8日間で全行程は約220kmです。単純に計算しても,兵士は1日につき約30km弱を8日間にわたり歩かねばなりません。当時は梅雨の真っ最中で,8日間のうち5日間は雨でした。しかも京都に着いたら,光秀と戦わなければなりません。4日目には船坂峠という難所も越えねばなりません。兵士たちは当然のこととして,約30kgもある武具を身につけての行軍です。さらに,夜の睡眠は雨が降り,ヤブ蚊がぶんぶん飛んでいるようなところでの野宿がほとんど。このような行軍に耐えられる人は今の日本人の中でどれだけおられるでしょうか。

また,ここで大切なことは,兵士たちの食料についてです。この行軍を支える兵士の一人あたりの1日の食料は,おにぎり20個分です。全軍は2万人ですから,1日で40万個分(約40t)のおにぎりが必要です。各所で玄米を調達するにしても,それは大変な量です。また,武具や食料を運ぶ馬は約7千頭も用意されました。馬に食べさせるための飼料を運ぶ馬も合わせると,そんな多くの数となります。これだけの大軍や馬が移動するときに落とす糞尿の量も半端ではありません。その処理も大変で,その環境も不衛生です。このような過酷な環境の中,病気や疲労で脱落した兵士も多かったことでしょう。

このような状況に思いを巡らせると,この中国大返しがいかに大変な移動であったかが想像できます。また,これだけの決断と行動を即座に実行できるには,前々からの入念な準備や手配が必要だったと考えられます。つまり,秀吉は日頃から予想可能な様々な局面を想定して,「このようなことになったら,このような手を打つ」ということを考え抜いていたことでしょう。秀吉は,本能寺の変の1か月前から高松城を水攻めにしていました。その状況からして,秀吉には様々なケースを想定して,打つ手を考える時間的余裕があったとも考えられます。私は以上のような情報を『日本史サイエンス』播田安弘著〈講談社BLUE BACKS〉から知りました。今までの私は,歴史上の出来事を「ああ,そうなんだ。そんなこともあったのだ」と表面的に納得していましたが,この本を読んで,歴史についてもっと深く考え,科学的な面からも捉えていく必要性を痛感しました。