第362回 蒙古の襲来

皆さんは「蒙古の襲来絵詞」という絵をご存知のことでしょう。この絵は肥後の御家人・竹崎季長(すえなが)が,自身の活躍を絵師に描かせた長い絵巻物です。その中の1枚「絵七」は,中学校の歴史の教科書にも載っている有名な絵です。

その絵を見ると,鎌倉武士は互いに名を名のり合う1対1の戦いをしたために苦戦したこと,「てつはう」という火器を使われたために,馬も驚いてしまったことなどがわかります。合戦の様子も蒙古が有利であったにもかかわらず,奇跡的に台風のおかげで蒙古の襲来は防げたなどが通説のようです。

さて,これらの通説は果たして本当なのでしょうか。史実を分析すると,当時使われた軍船は約300艘,蒙古軍の総勢は約4万4千名(うち兵士は約2万6千名)だったようです。蒙古軍は10月5日に対馬に上陸し,残虐の限りを尽くしました。続いて10月14日に壱岐に入り,ここでも武士のみならず,島民も赤子に至るまで虐殺しました。そして蒙古軍は10月20日に博多湾へ侵入しました。これに対する日本軍の兵士は合計約1万人で,蒙古兵約2万6千人に対しては不利と思われます。やはり,日本には神風という奇跡が起きて勝利したのでしょうか。

そのあたりの史実を科学的に分析した本があります。『日本史サイエンス』播田(はりた)安弘著〈ブルーバックス〉です。その本によると,蒙古軍は対馬海峡と玄界灘の難所を船で乗り越えるに際して,船酔いによる体力の消耗が大いにあっただろうとのことです。次に,上陸の困難さがあります。船は上陸に際し,錨を下ろし,小さな船に乗り移ります。それを繰り返し,全員が上陸します。それを完了するまで1日以上の時間がかかり,蒙古軍はそれだけでも相当不利だったと考えられます。さらにその後,浜辺に陣地を作らねばなりません。これを考えると,蒙古軍全員は上陸できていなかったかもしれません。このとき日本軍は通説のような1対1の戦いではなく,騎馬隊の体制をつくり,左手には弓,右手には矢を構えて,流鏑馬のような形で蒙古軍陣地に突撃していったようです。この際,日本の弓や大鎧,日本刀は,蒙古軍が持っているものより性能が良く,大活躍したようです。このようにして日本軍は,蒙古軍を圧倒したのです。

このとき,冬の兆しの北西風が吹き始めました。さらに日本軍には援軍が加わることも考えられました。これらの要因から,蒙古軍は撤退を決断します。蒙古軍は全軍の兵を集め,船に乗り込み帰還しますが,時すでに遅しでした。寒冷前線に伴う低気圧が博多に接近したのです。この風によって蒙古軍の多くの船が難破しました。蒙古軍は多くの犠牲を払い,1か月以上もかけてようやく帰還しました。以上が第1回目の元寇の真実だとのことです。この本を読んで私は,通説を鵜呑みにせず,科学的な思考を持つ大切さを学びました。