第349回 牧野富太郎博士

突然ですが,皆さまはこの方をご存知ですか?
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いつも明るく朗らか,満面の笑みを湛えた牧野富太郎博士です。牧野氏は1862年に高知県で生まれ,94歳で没するまで植物学の研究に没頭されました。

氏の生涯で収集した植物標本はなんと約40万点,描いた植物図は約1700点にものぼります。その図は精緻を極め,海外の植物学者からの高い評価も得ました。
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氏は,寝る間も惜しんで,野山を駆け回り,植物採集とその研究に没頭しました。

植物採集には,北は利尻山から南は屋久島と飛び回り,その当時日本の領土だった台湾まで足を延ばしました。

氏は植物研究への時間を優先するあまり,小学校すら卒業しておらず,学歴は小学校中退です。しかし,その実績と熱意を認められ22歳のとき,東大の植物学教室に出入りを許され,本格的な植物研究に没頭しました。

その後,友人と『植物学雑誌』の刊行を始めとして,1888年には『日本植物志図篇』なども出版し,世に植物学を広めていきました。

さて,ここで皆さまは大きな疑問を抱かれることでしょう。「国から研究費が出るわけでもなく,いったいその活動を支えたり,出版する費用はどこから捻出したのか」という疑問です。

まずは,氏の生家からの援助です。氏は現高知県佐川町の裕福な商家の長男として生まれました。始めはその家から多額の資金援助を得て研究を続けていました。しかし,ついにその家も没落して援助は途絶え,借金まみれに陥りました。その額は今のお金にして億単位だったようです。

牧野一家は家賃すら払えず,夜逃げ同然の引っ越しを何度となく繰り返しました。借金取りも毎日のように押しかけました。一方で,儲けた子どもは13人に上るというから驚きです。このような破天荒な生活を支えたのが「何とかなるろう(なるだろう)」という氏のポリシーと,辛抱強く氏を支えた有能な奥さんの存在です。さて,氏は94歳まで生き,安らかな生涯を遂げました。ではいったい「億単位の借金」はどうなったのでしょうか。その顛末や牧野富太郎博士の生涯について,ご興味をおもちの方は,ぜひ牧野富太郎博士の生涯について書かれた『ボタニカ』朝井まかて著〈祥伝社〉をお読み下さい。この本はかなり分厚い本ですが,とても面白く,私は一気に読み切ってしまいました。