第61回 無学租元禅師

時は鎌倉時代,元寇の時の執権時宗の父時頼公は,南宗から禅師を招き,建長寺を開山しました。息子の時宗も禅の修行に励み,指導者としての資質を磨きました。

このような時に,一度目の元寇である文永の役が起きます。この時,時宗は24才,元軍は3万とも言われる軍勢で,まずは対馬と壱岐を攻め,島民のほとんどは虐殺されました。その後,元軍は博多に上陸し,日本軍は大宰府まで後退するというピンチに陥りました。この時の時宗の心境はどうだったでしょうか。

当然強い恐怖感にさいなまれていたと思いますが、その時、時宗はいささかも動じる様子がなかったと言われています。やはり、禅で鍛えた心と身体がそのような時宗をつくったのでしょうか。その後、時宗はやはり、南宗から無学租元禅師を招きます。無学租元禅師は54才でありながら、厳しい航海を経て来朝し、建長寺の住持となりました。そして、時宗を支えました。

弘安の役が起きたのは、無学租元禅師が来朝した2年後のことでした。この時、日本に襲来した元軍は何と14万。文永の役の実に5倍です。この時の時宗は31才。心が張り裂けるほどの恐怖感にさいなまれていたのではないでしょうか。時宗は無学租元禅師に助言を求め、心の安らぎを得て元軍に立ち向かいます。その後、御承知のように台風が来て、日本は何とか救われました。

時宗はその後,国家鎮護と蒙古襲来による殉死者を敵味方なく供養するために,円覚寺を開創しました。そして時宗は,弘安の役の3年後(34才),無学租元禅師はその2年後(61才)に亡くなられました。

私はこの事実を知って,このお二人は外国の侵略から日本を守るために,お生まれになったのではないかと感じました。日本は,このような先人達の並々ならぬ努力によって,今があるのだと感じ,先人達への深い感謝の念が沸き起こりました。